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乙津寺と重要文化財

乙津寺とは

岐阜市鏡島にある、豊かな緑に囲まれたお寺。

歴史も長く奈良時代(738)から続いており、弘法大師とゆかりが深く、「鏡島弘法」の名称で親しまれています。京都の東寺、神奈川県の川崎大師と並び日本三躰厄除け弘法大師のひとつと数えられています。

また、弘法大師が地面に刺した杖が梅になったといわれる梅の古木があり、別名「梅寺」とも呼ばれ、梅の名所でもあります。

弘法大師の月命日である21日には縁日が開催され、多くの人が県内外から訪れます。21日と毎月最終金曜日限定の金の御朱印も人気です。

永代供養の「涅槃の霊廟(ねはんのれいびょう)」 、 四国八十八ヶ所の土砂を移し創設した 「新四国八十八ヶ所霊場」など、本堂以外にも見どころ満載です。

重要文化財と堂本印象

戦火を逃れた国指定重要文化財

乙津寺の宝仏殿には、国指定重要文化財の仏像3体が納められています。

戦前の「古社寺保存法」によって「国宝」に指定され、戦後、法律の改正により、昭和25年8月29日に国重要文化財に指定されました。

昭和20年、第二次世界大戦の空襲でお堂は全焼しましたが、この3体は、兵隊さんや住職、地元の人が堤防まで担いで逃げたおかげで、現存しています。

木造一面千手観世音菩薩立像

十一面千手観世音菩薩立像
一本のヒノキから掘り出し、漆箔(しっぱく)を施した総金色像。 漆箔の多くは往年から残るもの。

慈悲の深さが表現された、一切衆生( この世に生を受けたすべてのもの )を救う仏様

天平時代(西暦700年代頃)の作。なんと1200年以上の時を経て現存している、乙津寺の本尊です。

頭上の十一面は、さまざまな喜怒哀楽の表情、合掌の手を除く両脇の四十手は、一つの手に25の救いがあるということから、どんな悩みも救い受け止めてくださる観音様です。

木造毘沙門天立像

毘沙門天立像
怒りの表情が控えめなのは、平安時代作の特徴。

東海地方で唯一の、珍しい毘沙門天

藤原時代(900年代頃、平安時代の中後期)の作。

空海が造ったと伝えられる、りりしい表情の毘沙門天像。左手に戟(げき・古代中国の武器)を持ち、右手は宝塔を持たずに腰に手をあてた「鞍馬寺様式」のタイプは珍しく、東海地方にはこの一つしかありません。

木造韋駄天立像

韋駄天立像
兜が取り外し可能というのは珍しい。風になびいた両袖など、躍動感に富んだ立ち姿。

「韋駄天走り(いだてんばしり)」の由来となった、足の速い仏様

鎌倉時代(西暦1200年代頃)の作。

俊足を指す「韋駄天走り」という言葉は、 お釈迦様の遺骨を盗んだ鬼神を、韋駄天が追いかけ取り戻したという説が由来となっています。

お釈迦様の食べ物を集めるために奔走したともいわれ、「食べるのに困らない仏様」ともされています。韋駄天像の中でも、最古級で、国内屈指の大きさを誇ります。

日本画モダニスト「堂本印象

乙津寺の書院には、日本画のモダニストと称される堂本印象画伯の襖絵「超ゆる空」が秘蔵されています。また、大師堂の天井には、画伯の天井墨絵「雲龍」が描かれています。

襖絵をモチーフにした御朱印帳
大師堂にある龍の天井画

明治24年~昭和50年(1891-1975)  明治24年京都生れ。本名三之助。

明治43年京都市立美術工芸学校を卒業後、しばらく西陣織の図案描きに従事し、大正7年、日本画家を志し て京都市立絵画専門学校に入学。

翌8年、初出品した「深草」が第1回帝展に入選した。第3回展では「調鞠図」で特選、また、第6回展の「華厳」では帝国美術院賞を受賞するなど一躍画壇の花形となった。

絵画専門学校の教授として、また私塾東丘社の主宰者としても多くの後進を育成、昭和19年、帝室技芸員となった。

戦後は、独自の社会風俗画により日本画壇に刺激を与えた。

昭和25年、芸術院会員。さらに昭和30年以降は抽象表現の世界に分け入り、その華麗な変遷は世界を驚かせた。多くの国際展にも招かれ、昭和36年には文化勲章を受章した。

昭和41年、自作を展示する堂本美術館を自らのデザインにより設立。また、様々な技法を駆使しあらゆる画題をこなす画才は、各地の寺社仏閣の障壁画においても発揮され、多くの作品を残した。昭和50年9月逝去、83歳。

京都府立 堂本印象美術館公式ページ